【宮古市】宮古で戦闘?宮古湾海戦について調べてみた。土方歳三も参戦?【岩手】
こんにちは。意外と歴史が好きならんまるです。
こないだ岩手県宮古市で、学校の近所を歩いていたらこんなポスターが貼ってありました。
「宮古港海戦150周年」
とあります。
岩手県宮古市にある宮古湾で、150年前に戦いがあったことをご存知でしょうか?
その戦いの名は
「宮古湾海戦」
です。
宮古湾の位置はここ。
宮古湾海戦は、戊辰戦争の中で行われた戦闘のひとつなのですが、
まずは戊辰戦争について簡単に確認しておきましょう。
1.戊辰戦争とは?
戊辰戦争とは、
1868〜1869年まで行われた、
徳川慶喜を中心とする旧幕府軍vs薩摩、長州、土佐3藩を中心とした新政府軍が争いました。
幕府は戊辰戦争に先立つ1867年、大政奉還によって政権を朝廷に返上しています。
しかし旧幕府軍は明治になっても政治に参加したいと思っていました。
その思いに反し新政府軍(薩摩・長州・土佐)は、明治政府から旧幕府軍の勢力を排除したいと考えていました。
そこで起こったのが戊辰戦争です。
京都で始まった戊辰戦争ですが、旧幕府軍は徐々に北へ北へと追い詰められていきます。
戊辰戦争は、日本各地で戦いが行われています。
その中でも彰義隊が戦った上野戦争や、白虎隊が自刃することになった会津戦争は有名です。
「宮古湾海戦」
です。
2.両軍の船、宮古湾に集結
旧幕府軍は京都の鳥羽伏見の戦いに始まり、北陸、東北での戦いに負け続けていました。
榎本武揚、土方歳三ら旧幕府軍は蝦夷地(今の北海道)にわたり、新政府軍に対抗するための力を蓄えていました。
※大河ドラマ「新選組!」では俳優の山本耕史さんが熱演していました。
そんな旧幕府軍でしたが、主力艦であった「開陽丸」という船を荒天による座礁で失い、戦力の低下に焦っていました。
そんななか、北海道に居座る旧幕府軍を攻撃するため、新政府軍の軍艦8隻が岩手県宮古市宮古湾に集結していました。
1869(明治2)年3月18日のことです。
その中には当時鉄製の艦船では国内最優秀だったといわれる「甲鉄」もありました。
旧幕府軍はこの「甲鉄」を奪うことを決意します。
全軍の総司令官、荒井郁之助
「回天」の艦長、甲賀源吾
らが「回天」に乗り込みます。
元々の計画では、軍艦3隻で新政府軍の「甲鉄」を奪う予定でしたが、「回天」以外の2隻が機関のトラブルに見舞われてしまいます。
そのため、作戦決行は「回天」一隻で行うことに。
計画が崩れたんだから、攻撃するのやめとけよと思ってしまいますが、
それだけ旧幕府軍は焦っていたということでしょうね。
3.戦闘開始
1869年3月25日(今の暦で5月6日)、旧幕府軍の船「回天」はアメリカの国旗をかかげて宮古湾へ入ります。
新政府軍の船「甲鉄」に近づくと、アメリカの国旗を日章旗(日本の国旗)に差し替えました。
だまし討ちです。
回天は船首を甲鉄の左舷につけます。
そして、「アポルタージュ」の命令で、兵士が甲鉄に乗り込み、切り込みをかけます。
「アポルタージュ」とは、フランス語で「接舷切り込み」という意味です。
船体をくっつけてもう一方の船に移動し、刀での切り込みをかけるという意味ですね。
旧幕府軍の側にはフランス人の軍事アドバイザーが乗っていたので、フランス語の言葉が使われたのでしょう。
船をもう一方の船にくっつけて、切り込みをかけて奪い取る。
そんな作戦メチャクチャぶっ飛んでると思いませんか?
宮古市の歴史に詳しい小島俊一さんは、この接舷斬り込み作戦について、
「こんなやり方は世界海戦史上でも稀である。奇想天外な作戦はマジック的でさえある」
『宮古湾海戦秘聞』小島俊一 S62年 p46
と評しています。
4.ガットリング機関銃での応戦
「甲鉄」の側(新政府軍)はそれに対抗し、当時の最新鋭だったガットリング機関銃を使って反撃します。
ガットリング機関銃(復元)の写真です。
棒状の取っ手を回すことで弾丸が1分間に180発発射できます。
ちなみに「ガットリング」というのは、この機関銃を開発した医者の名前だそうです。
この兵器により、艦長の甲賀以下多数の旧幕府軍兵士が倒れます。
激戦わずか30分で両軍の使者19人、負傷者34人でした。
この戦闘に対し、前出の小島俊一さんは、
「日本刀で新鋭火砲に立ち向かう精神主義は、以降の日本陸軍にも残され、太平洋戦争敗因の大きなシコリとなっていた・・・」
引用元:『宮古湾海戦秘聞』小島俊一 p47
と述べています。
たしかに、ガットリング砲に対して刀で切り込みをかける旧幕府軍の姿は、太平洋戦争での日本軍がアメリカ軍に対して行った銃剣突撃を連想してしまいます。
結局、「回天」は退却し「宮古湾海戦」での旧幕府軍の敗北が決定します。
ちなみにこのとき新政府軍の艦船「春日」には、 後に日露戦争での「日本海海戦」で活躍する東郷平八郎が乗り込んでいます。
5.宮古湾海戦の終結
機関の故障により、宮古湾に遅れて入ってきた旧幕府軍の船「高尾」は、時すでに遅し。
回天とともに退却します。
さらに残念なことに、「高尾」は官軍に追いつかれ、田野畑村羅賀の海岸で座礁。
みずから火を放ち海へ沈みました。
宮古市の藤原地区では、地元の人間である大井要衛門が、流れ着いた旧幕府軍兵士の遺体を弔ったそうです。
その場所が今も「幕軍無名戦士の墓」として残されています。
道に面しているところに建てられており、
「こんなところにお墓があるのか」
という印象でした。
僕はこの碑を前に当時の戦闘を想像し、宮古に歴史があることを実感しました。
当時の宮古の人たちは、両軍の区別なく戦死者に手を合わせたそうです。
6.宮古湾海戦のその後
しかし、新政府軍の攻撃に耐えることができず五稜郭は落城。
土方歳三は戦死。
榎本武揚、荒井郁之助は新政府軍に捕らえられ牢獄へ。
これにより、1868年1月の鳥羽伏見の戦いから始まった戊辰戦争が終結します。
しかし、榎本、荒井は後に釈放され明治政府で働くことになります。
榎本は後に外務大臣となり、領事裁判権の撤廃など日本にとって不平等な事態を変えるため、条約改正交渉に当たります。
参考文献
『宮古湾海戦秘聞』小島俊一 S62年
『図説 宮古・釜石・気仙・上、下閉伊の歴史』
監修 金野静一 郷土出版社 2005年
7.最後に
岩手県宮古市で歴史的な戦闘が行われていたことをご存じだったでしょうか?
「宮古湾海戦」は教科書には掲載されていないかもしれません。
しかし、それと関連する「戊辰戦争」「鳥羽伏見の戦い」は学校の教科書に載っている用語です。
自分の身の回りにも、教科書に載っている歴史に関係することが隠れているのだな、と改めて実感できました。
気づいていないだけで、みなさんの身の回りにも、歴史的な出来事が隠れているかもしれません。
おしまい。
rammaru-kokaishi.hatenablog.com